「誠実に在りたい」と思う気持ちは、多くの人にとって自然で大切なものだと思います。
自分の中にある正直さや、一貫した言葉、丁寧な態度。
けれど現実の中で、それを保ち続けることは決して簡単ではありません。
空気を読むこと、関係を壊さないこと、疲れないように生きること、「めんどくさい人と思われたくない」という小さな恐れ──
そういった感覚が、知らず知らず誠実さにブレーキをかけてしまうことがあります。
また、声を上げた人が“扱いづらい”とされてしまったり、真剣さが“浮いて見える”空気があることも、きっと少なくないのではないでしょうか。
誠実であることが、人を孤立させたり、緊張させたりしてしまうのだとしたら、それは社会のどこかに、問い直すべき構造があるのかもしれません。
みなさんは、「誠実であろうとした結果、つらかった」経験がありますか?あるいは、「誠実さに救われた」記憶は?
誠実という在り方には、不思議な強さと繊細さが同居している気がします。
それは、声を張り上げることではなく、一つひとつの言葉や態度に、整合性と敬意を持たせようとする姿勢のようなもの。
けれど現実のなかでは、そのような在り方がときに“違和感”として扱われてしまう場面があるのかもしれません。
時間をかけること。納得してから動くこと。曖昧にせず、説明を尽くすこと。
それらが“誠実”であるはずなのに、「面倒」「遅い」「浮いている」と感じられてしまう空気があるとすれば、私たちの社会や組織の中に、“無意識の急かし”や“同調の圧力”があるのかもしれません。
誠実であろうとする人が、疲れずにいられる関係性。
誠実な声が、届きやすい設計や文化。
そういったことを、少しずつでも考えていけたらと思いました。