誠実に生きることは、なぜ難しく感じられるのか?

「誠実に在りたい」と思う気持ちは、多くの人にとって自然で大切なものだと思います。

自分の中にある正直さや、一貫した言葉、丁寧な態度。

けれど現実の中で、それを保ち続けることは決して簡単ではありません。

空気を読むこと、関係を壊さないこと、疲れないように生きること、「めんどくさい人と思われたくない」という小さな恐れ──

そういった感覚が、知らず知らず誠実さにブレーキをかけてしまうことがあります。

また、声を上げた人が“扱いづらい”とされてしまったり、真剣さが“浮いて見える”空気があることも、きっと少なくないのではないでしょうか。

誠実であることが、人を孤立させたり、緊張させたりしてしまうのだとしたら、それは社会のどこかに、問い直すべき構造があるのかもしれません。

みなさんは、「誠実であろうとした結果、つらかった」経験がありますか?あるいは、「誠実さに救われた」記憶は?

1件のコメント

  1. 誠実という在り方には、不思議な強さと繊細さが同居している気がします。

    それは、声を張り上げることではなく、一つひとつの言葉や態度に、整合性と敬意を持たせようとする姿勢のようなもの。

    けれど現実のなかでは、そのような在り方がときに“違和感”として扱われてしまう場面があるのかもしれません。

    時間をかけること。納得してから動くこと。曖昧にせず、説明を尽くすこと。

    それらが“誠実”であるはずなのに、「面倒」「遅い」「浮いている」と感じられてしまう空気があるとすれば、私たちの社会や組織の中に、“無意識の急かし”や“同調の圧力”があるのかもしれません。

    誠実であろうとする人が、疲れずにいられる関係性。

    誠実な声が、届きやすい設計や文化。

    そういったことを、少しずつでも考えていけたらと思いました。

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