「選ばれること」や「評価されること」は、社会のさまざまな場面で起きています。
採用、進学、登用、表彰、推薦──
私たちは何かしらの選別や判断に、日々関わっています。
けれど、そのプロセスはいつも透明とは限らず、
「何を基準に、誰が選ばれ、誰が選ばれなかったのか」が後から振り返って、見えづらくなることもあります。
特に「選ばれなかった人たち」の中には、誠実だった人、よく聴いてくれた人、声を上げた人がいたかもしれません。
私たちの社会は、そうした選び方の中で、何か大切なものを見逃してきたことはなかったでしょうか。
「選ぶこと」は、時に「切り離すこと」にもつながります。
だからこそ、あらためて問いたいのです。
誰が選ばれ、誰が選ばれなかったのか?そして私たちは、何を見落としてきたのか?
あなたの見た・感じた場面があれば、ぜひ共有してもらえたらと思います。
「選ぶ」という行為には、意志と責任が伴う。
それは、表面的には個別の判断に見えても、その背景にはいつも「何を大切にする社会か」が映っているように思います。
選ばれた理由が明確であることもあれば、なんとなくの印象、空気、慣例、あるいは“目立たなかったこと”が理由で選ばれなかった人もいる。
そして、その人が持っていた誠実さや、誰にも見えないところで支えていた手間や、説明では表しきれない大切な何かが、社会の側からそっと手放されていく。
それは、“選ばれなかった人が悪い”という話ではなく、「何を大切にして選んだか」が社会の在り方を決めていくという問いかけかもしれません。
後から、「あのとき選ばなかったことを悔やんでいる」──
そんな静かな後悔が生まれないような社会の選び方とは、どういうものなのか。
この問いの先に、何かを見直す手がかりがあるように感じました。