毎日走っている鉄道。
それは、ただの交通手段ではなく、まちの構造や、生活の時間、関係の距離までも形づくっているものだと思います。
けれど、その線路やダイヤ、駅の場所や乗り継ぎの設計は、果たして誰の暮らしを「前提」としてつくられてきたのでしょうか?
通勤・通学が中心?商業の利便性?都市から都市へのつながり?
そこには、動けることが前提の人、時間通りに移動できる人、予定を調整できる余裕のある人たちの姿が、前提として描かれているのかもしれません。
一方で──
乗り換えに時間がかかる人。ベビーカーを押している人。
病院へ向かう人。駅から駅までの距離が長い地域に住んでいる人。
そうした人たちの暮らしは、鉄道の構造にどう映っているのでしょうか?
鉄道は、誰の生活を中心に走っているのでしょうか?そして、誰の生活は“遠いもの”として扱われているのでしょうか?
鉄道は、日々の生活のなかで「移動のためのもの」としてあまりに自然に存在しているけれど、よく見てみると、「動けること」が前提になっている構造が随所にあるように感じます。
時間通りに歩ける人。階段の上り下りに困らない人。情報を読み取るのが得意な人。知らない駅でも迷わず動ける人。
そういう人たちの「生活の速度」や「移動の感覚」が、鉄道の側の前提になっているのかもしれません。
一方で、少しでもペースが違えば、駅の構造が「無言の選別」のように感じられる瞬間もあります。
鉄道の設計そのものが人を選んでいる、というよりも、「誰の生活にあわせて設計されたのか」が問われていないまま進んできた──
そんな印象を受けることがあります。
だからこそ、
鉄道の構造そのものを問い直すだけでなく、
誰がそこに“いることを前提にされたか”という問いを、もっと丁寧に重ねていくことが必要なのではないか
そんなふうに感じました。