誰かが問いを立てたとき、それが“届く”かどうかは、声の大きさや言い方だけではなく、「どう受け取るか」にも関係しているように思います。
「その問いには意味がある」と受けとめる。「それは考えるに値することだ」と応じる。それだけでも、その問いの行方は大きく変わる。
逆に、「その問いは軽い」「正しくない」「面倒だ」と判断されてしまえば、その問いは場から押し出され、問いを立てた人もまた、対話の外側に置かれてしまうことがあります。
だからこそ、
問いを受け取るということには、何かしらの“責任”があるのではないか── そんなふうに思います。
それは制度的責任なのか、倫理的な態度なのか、関係性のつくり方なのか。
みなさんが感じている、問いを「受け取った経験」、あるいは「受け取れなかったときの感覚」を、よければ聞かせてください。
問いを受け取るということは、単に「聞く」ことや「反応する」ことではなく、その問いの背後にある時間や感情ごと、一度、自分のなかに引き受けるということなのかもしれません。
そこには、正しく応えることよりも、「あなたの問いは、確かにここに届いています」という静かな応答が求められている気がします。
ときにその問いは重すぎて、すぐには応じられないこともある。
理解できないまま抱えざるをえないこともある。
でも、そのまなざしがあるだけで、問いを立てた人は「この社会のなかに、自分の問いがあってもいい」と感じられる。
問いを受け取るということには、その人の存在ごと認めるような、やわらかな責任がある──
そんなことを、この問いを読みながら考えていました。