社会の制度やまちの設計は、誰かの暮らしや、動きやすさや、生活の前提をもとにつくられてきました。
でも、その「前提」からこぼれている人たちも、たくさんいます。
速く歩けない人。言葉にしづらい感情を抱えている人。立場的に声を上げにくい人。
そういった人たちは、制度や仕組みの「前提」には入っていないけれど、だからこそ、そこから別の問いを立てる力を持っているとも言えるのではないでしょうか。
ただ、その問いが「届く」「受け取られる」には、言語の壁、手続きの壁、構造的な無意識──さまざまなものが横たわっています。
“想定されなかった人”は、どこから問いを立てられるのでしょうか?そして私たちは、その問いをどう受け取り、どう位置づけていけるのでしょうか?
「問いを立てる」という行為は、誰にでも許されているように見えて、実はとても環境に左右されるものなのかもしれません。
聴いてくれる人がいるかどうか。自分の言葉が届く場があるかどうか。「問いを立ててもいい」と感じられる空気があるかどうか。
そうしたものが整っていなければ、その人の中にある問いは、心の中だけで繰り返され、やがて沈黙してしまうこともある。
「想定されなかった人」とは、社会の仕組みや制度が前提にしていない存在でもあるけれど、同時に、問いの出発点を誰よりも深く持っている人でもあると思います。
大切なのは、その問いが“発せられる場”と、“受け取られるまなざし”の両方なのかもしれません。
この問いを読みながら、「どこから問いを立てられるか」というより、「どの問いが、いま誰にも届いていないか」を思い返していました。