新幹線、特急、短縮される所要時間、スムーズな乗り継ぎ── 鉄道の評価軸として、「速さ」は当たり前のように重視されています。
けれど、その「速さ」がもたらしている価値は、誰の暮らしを前提にしているのでしょうか?
速く移動できることが「正義」とされる一方で、ゆっくり歩く人、予定を調整できない人、あえて急がない選択をしている人たちは、鉄道の設計のなかでどこに位置づけられているのでしょうか。
一駅飛ばされる各駅停車。待ち時間が長くなる地方のダイヤ。「時間をかけること」に対して残されている居場所は?
鉄道にとっての“速さ”とは、誰にとっての価値なのでしょうか?そして「速さを前提にしない設計」は、どこから始められるのでしょうか?
鉄道にとっての「速さ」は、まちとまちをつなぎ、人の時間を“短縮”することで、より効率的な移動や経済活動を支えてきたと思います。
けれど、その“短縮”のために、どれだけの「途中」が、見えにくくなってきたのか──
ふと立ち止まって考えたくなることがあります。
ひとつ飛ばされた駅。間に合わないと乗れない接続。早足で歩くことを前提に設計された通路。
「速さ」が価値になるとき、それは誰の生活のペースを基準にしているのか?
その問いを立てることで、鉄道が“誰の生活と時間を前提にして走っているのか”が、もう少し見えてくるのではないかと思います。
もしかすると、“速さ”を追い求めることで、一緒に過ごせたはずの時間や、目に入るはずだった風景を、少しずつ手放してきたのかもしれません。
この問いは、「急がないでいい移動」の在り方を、私たちが取り戻せるかどうかを静かに問い返しているように感じました。