鉄道と聞くと、多くの人が「動くこと」「移動すること」を連想するかもしれません。
けれど、生活の中には、“動かないでいること”“とどまること”にも、たしかな意味があります。
同じ場所に通い続ける。そのまちで年を重ねる。駅のそばで店を営み続ける。
それは、目立たないけれど、社会の“根”を支えている営みなのかもしれません。
けれど、速さと変化を前提にした鉄道の設計は、果たしてこうした「とどまり続ける人たち」の暮らしをどれだけ想定してきたのでしょうか?
通過される駅。日中に電車が来ない時間。周辺に店が減っていく地域。
鉄道は、“とどまること”を支えるしくみになっているのでしょうか?それとも、“動き続けること”だけが前提になってはいないでしょうか?
鉄道は、どこかへ向かう手段として語られることが多いけれど、同じ場所にとどまりながら、それでも「駅がそばにある」ということは、それだけで安心や居場所のようなものにつながっているのかもしれません。
通勤や移動のためだけでなく、駅前の店に立ち寄ること。変わらない時刻表を見上げること。「いつでも動けるけど、いまはここにいる」という感覚。
それは、鉄道が“移動の象徴”であると同時に、
“とどまることを可能にする存在”でもあるということ。
けれど今、スピードや利便性を重視する構造の中で、「とどまり続ける生活」が設計の外に追いやられつつあるようにも感じます。
無人化される駅。通過してしまう地元の場所。駅の周辺から静かに減っていく関係。
「とどまる」という選択が、社会の中で“尊重されること”であり続けられるかどうか──
それを鉄道は、問いかけているようにも思います。