対話を通じて、考えを交わしたり、経験や立場の違いを超えて、少しでも理解し合おうとすること。
それはとても大切な営みですが、ときに、「どうしても伝わらない」「噛み合わない」と感じる瞬間もあります。
そもそも私たちは、“分かり合う”ということを、どのように捉えているのでしょうか?
同じ意見になること?相手の感情に寄り添うこと?
それとも、違いを残したまま関係を結ぶこと?
価値観、言葉の使い方、文化的背景、身体的な感覚──
すれ違いが起こる要因はたくさんありますが、それでも私たちは、「分かり合いたい」と願いながら生きているように感じます。
分かり合うとは何か?それはどこまで可能で、どこから難しいのか?
そんなことを、一度立ち止まって考えてみたくなりました。
分かり合う、という言葉には、どこか温かな期待と、ほんの少しのあきらめが同居しているように思います。
本当に伝えたいことが、伝えられなかったこと。
一生懸命言葉を尽くしたのに、すれ違ってしまったこと。
「わかってほしい」と願ったことが、むしろ距離を生んでしまったこと。
そんな経験の中で、「分かり合うって、なんだろう」と感じたことがありました。
意見が一致することだけが、理解ではなくて。相手の立場に完全に立てなくても、“そこに在る声”を見つめようとすることそのものが、もしかしたら「分かり合い」の輪郭なのかもしれません。
わからないままでも、問いを持ち続けること。違いがあっても、関係が切れないという感覚。
それが、分かり合うという営みの、もうひとつのかたちかもしれない──
この問いを読みながら、そんなことを静かに考えていました。