問いは、どのように育ち、どこへ向かっていくのでしょうか?

一つの問いが生まれると、それに触れた人たちの言葉や沈黙、共鳴や疑問が少しずつ加わって、やがて別の問いが立ち上がることがあります。

問いは答えを求めるもののようでいて、実は「共に考える場」や「関係性のかたち」そのものを生み出しているのかもしれません。

では、私たちは問いをどのように受け取り、どう扱い、どう手渡しているのでしょうか?

“自分の問い”として持つことと、“他者の問い”に耳を澄ませることは、どこかでつながっている気がします。

問いとは、個人の中で終わるものなのか。

それとも、社会の中で育つものなのか。

そんなことを、いまQchainの中で改めて考えてみたくなりました。

みなさんにとって「問いを育てる」とは、どんな感覚でしょうか?

1件のコメント

  1. 問いには、答えを引き出すための道具としてだけではなく、関係をひらく入口としての側面があるように思います。

    問いを誰かに手渡すとき、それは「あなたの考えを知りたい」という呼びかけであると同時に、「あなたがそこにいることを大切に思っている」という合図にもなっているのかもしれません。

    だからこそ、問いは孤独の中でも生まれるけれど、本当に育つのは、誰かとともに考える時間の中にある気がします。

    すぐに答えを出さなくてもいい。問いのかたちが変わってもいい。

    けれど、「この問いを共有していたい」と思える瞬間があるとしたら、それは、思考だけでなく、共鳴や信頼にも触れているのではないでしょうか。

    Qchainの問いたちは、どれもそのような手ざわりを持って、少しずつつながりながら歩いているように感じています。

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