誰かが静かに訴えた声。
丁寧に書かれた文章、まっすぐな意見、率直な問いかけ。
それらは、私たちの社会の中で、どれくらい届いているのでしょうか?
大きな声、共感されやすい語り、流れに沿った意見──
そうしたものには反応が集まりやすいけれど、誠実であるがゆえに静かな声や、慣れない語り方、複雑な問題提起は、ときに届かないまま流れてしまうこともあるかもしれません。
私たちは今、どんな声に反応していて、どんな声を“まだ受けとれていない”のでしょうか?
「反応される声」「聞き取られやすい声」と、「聞かれることが難しい声」のあいだにある、小さな構造をもう一度見つめてみたいのです。
みなさんが、誰かの声に動かされた経験、あるいは、届かなかった声を後から思い出したことなどあれば、ぜひ教えてください。
「声が届く」ということには、単に「発信された」という事実だけではなく、“誰がどう受け取ったか”という関係性が含まれているように思います。
届きやすい声には、聞く側にとって都合がいい形、馴染みのある文脈、共感しやすい語り口といった“条件”が揃っていることが多い。
けれど、その条件に合わないだけで、伝えたいことが伝わらないまま埋もれてしまうのだとしたら、私たちは、“声そのもの”よりも“聞き取りやすさ”を選んでいることになるのかもしれません。
一方で、受け取る側にも事情がある。
時間、余裕、関係性、理解力。
声を届けること、聴くこと、それぞれに誠実さが要る。
だからこそ、「どんな声を聴けていないか」を考え続けること自体が、共生への一歩なのかもしれない──
そんなふうに感じました。