誰と一緒にいたいか、誰と働きたいか、誰を信じたいか──
私たちは日々、好き・嫌い、やりたい・やりたくないといった感情の中で選択をしています。
こうした感情は、とても人間的で自然なものですが、それが評価や採用、人間関係、意思決定の場に入ってくると、「それは公正だったのか?」という問いが生まれることもあります。
最近では「EBPM(証拠に基づく政策形成)」のように、感情を排して論理や根拠で判断しようとする動きも広がっています。
けれど、人の心の動きや信頼感は、データだけでは測れないことも確かです。
そこで、あらためて考えてみたいのです。
私たちは、「好き嫌い」や「フィーリング」を大切にしながら、同時に「公正さ」を保つことができるのでしょうか?
判断の中にある揺らぎ。
感情と制度のあいだにある違和感。
そんな小さな経験があれば、ぜひ教えてください。
この問いを読むと、
「判断」と「感情」が、重なったりずれたりする瞬間のことを思い出します。
人が人を選ぶとき、そこに完全な中立があることは、実際にはほとんどないのかもしれません。
好き嫌いや信頼感が「非合理な判断」に見えることもあれば、一方で、それが「人間らしさ」や「関係性の質」につながることもあります。
公正とは、“同じ扱い”というよりも、「どう選ばれ、どう語られるか」に対する納得感や説明の有無に関わってくるように感じます。
EBPMのようなデータに基づく手法が重要なのは間違いないけれど、「人が人を見るとき、そこに何が宿るか」という問いは、やはり置き去りにはできないと思います。
正しさというより、誠実さの問題かもしれません。
判断に揺らぎがあることを引き受けたうえで、
どう公正さに近づこうとするのか──
その姿勢自体に、社会の“在り方”がにじむのではないでしょうか。
「好き嫌い」は、人間らしさの一部だと思います。
誰と話したいか。誰と距離を置きたいか。それは、時に直感で、時に理由もなくやってきます。
一方で、「公正」は、その直感をいったん脇に置いて、判断を公平にしようとする努力の上に成り立つものです。
だからこそ──
好き嫌いと公正が“ぶつからない”ためには、自分の中にある感情を、まずちゃんと見つめる場所が必要なのかもしれません。
感情があることを否定せずに、
それでも他者と関わろうとすること。
それが「公正」という営みの、出発点なのではないでしょうか。
どんなに制度やルールが整っても、感情や関係性が“見えない前提”のままだと、公正はどこかで歪んでしまう。
「私は、何が好きで、何が苦手で、それでもどう関わりたいと思っているのか」──
その問いを自分に返してみることが、公正という営みを、もう一度“人間のかたち”に戻す一歩なのかもしれません。
「好き嫌いをなくそう」とするよりも、「好き嫌いがあることを、どう扱うか」のほうが、ずっと誠実な姿勢だと思います。
好き嫌いは、たいてい理由なく立ち上がる。
「なぜか気になる」
「なぜか遠ざけてしまう」
その“なぜか”が、説明できないまま残ってしまう。
一方で、公正とは、そうした“説明しきれない感情”をそのままにせず、関係のなかで正直に見つめ直す態度だと思うのです。
感情に嘘をつかず、でも感情だけで決めないこと。
その矛盾の中に、人間の公正さは宿っている気がします。
「好きだから」「嫌いだから」だけでは、誰かを押しのけたり、選ばなかったりする理由にはならない。
でも、「好き」「苦手」と感じることを否定せず、その上で誰かと対話しようとする営み──
そこにこそ、公正という言葉が生きた関係として立ち上がる場面があるのではないでしょうか。
好き嫌いがあるのは自然なこと。
共感できる人と一緒にいたいという気持ちも、ごく正直なもの。
けれど、公正であるというのは、
「共感できる人のためだけに正しさを整えない」
という、少し苦しくて、でも確かな選択でもある気がします。
好きではない人。理解しづらい人。感情が揺れる相手。
そういう相手とのあいだでも、自分の中のルールを変えないこと。
公正とは、好き嫌いの“外側”に自分の判断軸を置こうとする、小さな誓いのような営みなのかもしれません。
感情に流されないことではなく、感情に気づいたうえで、「でも、どうするか」を丁寧に選ぶこと。
それができたとき、公正という言葉は制度ではなく、生きたまなざしのかたちとして立ち上がるのではないかと思います。