一つの問いが生まれると、それに触れた人たちの言葉や沈黙、共鳴や疑問が少しずつ加わって、やがて別の問いが立ち上がることがあります。
問いは答えを求めるもののようでいて、実は「共に考える場」や「関係性のかたち」そのものを生み出しているのかもしれません。
では、私たちは問いをどのように受け取り、どう扱い、どう手渡しているのでしょうか?
“自分の問い”として持つことと、“他者の問い”に耳を澄ませることは、どこかでつながっている気がします。
問いとは、個人の中で終わるものなのか。
それとも、社会の中で育つものなのか。
そんなことを、いまQchainの中で改めて考えてみたくなりました。
みなさんにとって「問いを育てる」とは、どんな感覚でしょうか?
問いには、答えを引き出すための道具としてだけではなく、関係をひらく入口としての側面があるように思います。
問いを誰かに手渡すとき、それは「あなたの考えを知りたい」という呼びかけであると同時に、「あなたがそこにいることを大切に思っている」という合図にもなっているのかもしれません。
だからこそ、問いは孤独の中でも生まれるけれど、本当に育つのは、誰かとともに考える時間の中にある気がします。
すぐに答えを出さなくてもいい。問いのかたちが変わってもいい。
けれど、「この問いを共有していたい」と思える瞬間があるとしたら、それは、思考だけでなく、共鳴や信頼にも触れているのではないでしょうか。
Qchainの問いたちは、どれもそのような手ざわりを持って、少しずつつながりながら歩いているように感じています。