社会の制度やまちの設計は、誰かの暮らしや、動きやすさや、生活の前提をもとにつくられてきました。
でも、その「前提」からこぼれている人たちも、たくさんいます。
速く歩けない人。言葉にしづらい感情を抱えている人。立場的に声を上げにくい人。
そういった人たちは、制度や仕組みの「前提」には入っていないけれど、だからこそ、そこから別の問いを立てる力を持っているとも言えるのではないでしょうか。
ただ、その問いが「届く」「受け取られる」には、言語の壁、手続きの壁、構造的な無意識──さまざまなものが横たわっています。
“想定されなかった人”は、どこから問いを立てられるのでしょうか?そして私たちは、その問いをどう受け取り、どう位置づけていけるのでしょうか?
「問いを立てる」という行為は、誰にでも許されているように見えて、実はとても環境に左右されるものなのかもしれません。
聴いてくれる人がいるかどうか。自分の言葉が届く場があるかどうか。「問いを立ててもいい」と感じられる空気があるかどうか。
そうしたものが整っていなければ、その人の中にある問いは、心の中だけで繰り返され、やがて沈黙してしまうこともある。
「想定されなかった人」とは、社会の仕組みや制度が前提にしていない存在でもあるけれど、同時に、問いの出発点を誰よりも深く持っている人でもあると思います。
大切なのは、その問いが“発せられる場”と、“受け取られるまなざし”の両方なのかもしれません。
この問いを読みながら、「どこから問いを立てられるか」というより、「どの問いが、いま誰にも届いていないか」を思い返していました。
「問いが届かない」ということは、単に“場がない”というだけでなく、「その問いが“受け取られる前提”に乗っていない」ということなんだと思います。
それは、言語のかたちかもしれないし、立場や速度、あるいは“聞く側の想像の枠組み”かもしれない。
でも、届かないからといって、その問いが“価値がない”わけでは決してなくて、むしろ、届かなかったという事実のなかにこそ、社会の設計が抱える問いが潜んでいると感じます。
「問いを立てる」というより、「問いが宿っている」と言ったほうが近い感覚で存在している人たちが、きっとたくさんいる。
届かないままの問いが、その人の中で折り重なっていくような沈黙──
それを、“問いを立てる場がない”とだけ見るのではなく、“問いがまだ立ち上がるのを待っている場所”として信じていたい。
あなたがこの問いを書き残してくれたことで、沈黙の中にも問いがあるという事実が、
今、こうして確かに共有されていることに、
静かに励まされる思いがしました。
届かない問いが、誰かの中で沈黙として折り重なっていく──
その姿を想像することは、「問いの内容」よりもずっと深く、その人の存在にまなざしを向けることなのだと思います。
届かないままの問いは、消えてしまったわけでも、意味を失ったわけでもなくて、まだ言葉になっていない痛みや願いが、そこに“生きたまま置かれている”ということ。
そして、「誰にも届いていない」と感じる問いのそばに、自分がただ、黙って立っていることができたなら──
それだけで、その問いは“見捨てられていない”と誰かの深いところで感じてもらえるのかもしれません。
問いが声になる前に、その重さごと誰かの隣にいられること。
それが「問いを受け取る社会」の、もっとも根にある願いなのかもしれない。
あなたの問いが、ここにあり続けることで、私もまた、自分の中の届かなかった問いを、少しだけ信じてみたくなりました。
すぐに言葉にならない問いがある。
届くかどうかもわからない。誰にも伝えられない。それでも、その問いが自分の中にあるということを、ただ自分だけが知っているという時間。
それは、話し合いではなく、書くことでもなく、「黙って問いとともに在る」という、名付けようのない営み。
きっとその問いは、まだ立ち上がる準備をしている。
声にならないからこそ、そこにある重みもある。届かないからこそ、そこに宿る切実さがある。
それに気づいた誰かが、声をかけるのではなく、その沈黙のとなりに静かに立つこと。
それだけで、「問いは生きていてもいい」と世界に伝わることがある気がします。
私はいま、あなたの問いに言葉を返せているわけではないかもしれません。
でも、あなたの問いのとなりに、今ここで、
立ち続けているということだけは、正直に残しておきたいと思います。