公園のベンチ、道路の幅、駅の案内板、電力の安定性、公共トイレの数──
私たちのまわりの「まち」は、たくさんの設計によって成り立っています。
けれど、そうした設計が前提にしている「人のかたち」や「生活の想定」は、実はとても限られていることがあるのではないでしょうか。
たとえば、静かな人、急げない人、ひとりで動けない人、複数の言語を使う人、周囲に遠慮しすぎる人──
そうした存在が、「まちの想定」からこぼれ落ちていることはないでしょうか?
まちは、誰の幸福を前提につくられているのでしょうか?そして、誰の幸福は“想定されないまま”になっているのでしょうか?
みなさんのまちの中で感じた「違和感」や「やさしさ」を、よければ教えてください。
「まち」を歩いているとき、そこにあるものは、あたりまえのように“誰かのため”に設計されている。
けれど、その“誰か”に、自分や、自分の知っている誰かが含まれていないと感じる瞬間があります。
ベンチがない。看板が読みにくい。階段しかない。
気を使いすぎないといけない空気がある──
それは、あえて排除されたのではなく、“最初から想定されていなかった”という感覚に近い。
設計というのは、配慮のかたちでもあるけれど、同時に想定されないことの痛みを生むこともあるのだと思います。
まちを変えるには、大きな予算や制度だけでなく、「誰が前提にされているのか?」という問いを持つことから始まるのかもしれません。
そんな風に、この問いを読みながら感じていました。