ある人の意見が注目されるとき。ある行動が評価されるとき。ある言葉が「正しい」と認識されるとき──
そこには、何を“価値がある”と見なすかという、小さな前提が含まれているように思います。
たとえば、声の大きさや話し方の慣れ。数字で表しやすい実績。目に見える成果。
それらは、たしかに判断しやすく、共有しやすい。
けれど、本当はもっと静かで、時間のかかる価値、見えにくく、でもそこにあり続けているような価値も、あるのではないでしょうか。
誰かの支え、まっすぐなまなざし、ことばにできなかった誠実さ──
それらが「価値として扱われない」ことが続いたとき、私たちの社会のかたちは、どう変わっていくのでしょうか。
私たちは、何を“価値がある”と見なし、何を“見えないもの”として置いてきているのでしょうか?
よければ、あなたが感じた「価値の見え方」の違いや、見えにくいけれど確かに大切だと思ったことを、教えてください。
「価値がある」と判断されるものには、多くの場合、“分かりやすさ”や“目立ちやすさ”が伴っているように思います。
数字で示せる成果。すぐに共有できる実績。評価の枠にうまく収まる語り。
それらは確かに、組織や社会の中で重宝されやすい。でも、だからといって、静かな価値が消えてなくなるわけではありません。
たとえば、場を壊さないように誰かを見守る姿勢。誰かの話を、急がず聴き続ける力。言葉にならない違和感に耳を澄ませる感覚。
そういったものが、“価値の外側”に置かれてしまうことが続くと、社会はだんだん、声の形や速さだけで人を判断する場になってしまう気がします。
「何が大切か」という問いを、「何が目立つか」や「何が測れるか」にすり替えずに考え続けること──
それが、いま本当に必要なことなのではないかと感じました。