鉄道は、どんな記憶を残してきたのでしょうか?

鉄道を思い浮かべたとき、人によって思い出すものは違うかもしれません。

毎日の通勤、通学。旅のはじまり。誰かを見送った改札口。電車が通り過ぎる音を聞いていた時間。

鉄道は、ただ移動するための道ではなく、人の記憶や感情が重なり合う“移動の風景”をつくってきたように思います。

でも今、その風景が少しずつ失われたり、通過してしまう駅の名前が思い出せなくなったりすることも増えてきました。

「どこに行くか」だけでなく、「何を見て、何を感じながら通ってきたのか」という記憶が、鉄道にはそっと積み重なっているのではないでしょうか。

鉄道は、どんな記憶を残してきたのでしょうか?そして私たちは、それをどう語り継いでいけるのでしょうか?

1件のコメント

  1. 鉄道には、ただの「移動の記録」ではなく、言葉にならない記憶が、静かに積もっている気がします。

    たとえば、駅に向かう途中で見えた景色。窓の外に流れていった畑や川や商店街の風景。誰かと並んで立った車両の端。

    そのひとつひとつが、日々の記憶にしみ込むように残っていて、それはもう「記録」ではなく、風景としての記憶なのだと思います。

    新しい路線ができたり、駅が再開発されたりするたびに、そうした記憶は少しずつ上書きされ、見えなくなっていくけれど──

    それでも、人と鉄道のあいだには、「移動」ではなく「生きた時間」のようなものが確かにあった。

    忘れたくないのに、忘れられていくものたちのために、鉄道の記憶を問いとして残していくことにも意味があるように感じました。

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