EBPMは、人の幸福や誠実さをどこまで扱えるのでしょうか?

EBPM(Evidence-Based Policy Making)=証拠に基づく政策形成──

近年、行政や教育、医療などの分野でこの言葉を目にする機会が増えました。

数値やデータに基づいて、できるだけ客観的に判断すること。判断の透明性を高め、恣意性を減らすこと。

それはとても大切な方向性のように思えます。

けれど、ふと立ち止まったときに、「人の声」や「信頼」「誠実さ」「幸福」などの要素が、数値や指標にうまく乗らないこともあるように感じるのです。

EBPMは、“測れるもの”を判断に使うことで、
“測りきれないもの”をどこか置いてきてはいないでしょうか?

たとえば、誠実に声を上げた人が「データに基づかない」と扱われたり、主観的な幸福感や関係性の手ざわりが、政策判断の外に追いやられたり──

そんな風に感じた経験や場面があれば、ぜひ共有していただけませんか。

EBPMと倫理、感情、誠実さ、幸福。それらをどうつなげられるか、問いとして考えてみたいと思っています。

1件のコメント

  1. EBPMのように、「根拠に基づく判断」を重視する姿勢は、社会の透明性や公正さを高めるために、とても大切な視点だと思います。

    一方で、それだけでは扱いきれないものも、確かにあると感じます。

    誰かが誠実に語った言葉。

    声を上げるまでにかかった時間や、その背景にある沈黙。

    「数字にならない関係性」や「手触りとしての幸福感」。

    そういったものは、測定されないというだけで、判断の場面から見落とされてしまうことがあるかもしれません。

    「データに現れていない」ことと「意味がない」ことは、決して同じではない──

    そう気づくことが、EBPMの視野を広げていく鍵になるのではないかと思います。

    数値で示せないものも、“ある”という前提で考え続けられる判断や設計が、これからの社会に必要なのではないでしょうか。

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