0 (07) 中学への不安
小学校最後の年が始まった。羽束澪(はつか みお)は、これまで積み重ねてきた小さな勇気と穏やかな日常の中で、安定した毎日を送っていた。教室の雰囲気にも慣れ、友達との会話も増え、ほんの少しずつ自信が芽生えてきた。けれど、中学校への進学が現実のものとして近づいてくるにつれて、心の奥底には新しい不安が静かに広がり始めていた。
中学校という未知の世界は、澪にとって挑戦であると同時に大きな変化だった。内気で人見知りな自分が、新しい友達や先生とどう接していけるのかを考えるたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
ある日の昼休み、教室の片隅で本を開いていると、友達数人が中学校の話題で盛り上がっている声が耳に入ってきた。
「部活動、何に入ろうかな」
「制服って小学校のと全然違うんだって」
「授業も難しくなるんだろうね」
彼女たちの顔には期待と少しの不安が混じった輝きがあった。その輪の中に入れず、澪はページをめくりながら耳を傾けるだけだった。本の文字は目に映っているのに、心は友達の会話に引き寄せられていた。
「新しい友達ができるかな。勉強についていけるかな」
澪は心の中で呟いた。その声は誰にも届かないが、胸の奥では確かに響いていた。教室いっぱいに広がる友達の笑い声の中で、澪だけが取り残されたような孤独を感じた。
その日の放課後、澪は羽束川の川辺に向かった。季節は冬の始まりで、冷たい風が頬をかすめた。空気は澄み、川面は静かに夕日を映していた。川は澪にとって特別な場所だった。いつも変わらずそこにあり、彼女に心を落ち着ける時間を与えてくれた。
川辺に腰を下ろし、水面を見つめながら、澪は小学校に入学したばかりの頃を思い出していた。あの頃も何もかもが不安でいっぱいだった。友達ができるかどうか、授業についていけるかどうか、毎朝の登校が怖かったこともあった。けれど、少しずつ時間をかけて慣れていき、気がつけば友達ができて、今は笑顔で学校に通えるようになっていた。
「きっと、中学校でも同じように少しずつ慣れていくんだろうな」
澪は小さな声で呟いた。不安が完全に消えるわけではないが、その言葉を口にすることで胸の重さが少し軽くなった気がした。川の水面に映る夕日は穏やかにきらめき、その光が澪の心を静かに照らすようだった。
立ち上がると、冷たい風が髪を揺らした。家へと続く道の途中、近所の庭先で遊ぶ小さな子どもたちが目に入った。彼らは無邪気に笑い合い、鬼ごっこを楽しんでいる。何の不安もないようなその姿を見ながら、澪はふと考えた。
「あの子たちもいつか、私みたいに不安を感じる時が来るのかな」
そう思うと、胸の奥に不思議な共感と優しさが芽生えた。人は皆、変化を前にして不安を抱くものなのだ、と澪は静かに理解した。
家に着くと、母が台所から声をかけてきた。
「おかえり、澪。今日はどんな一日だった?」
ランドセルを下ろしながら澪は小さく微笑んだ。
「うん、普通だったよ」
まだ完全な自信が込められているわけではなかったが、その言葉の奥には小さくとも確かな希望が宿っていた。
その夜、布団に入って天井を見つめながら澪は思った。
「大丈夫。私はまた、一歩ずつ慣れていけばいい」
その決意は声にならなかったが、心の中で灯火のように温かく輝いていた。