小学校の高学年になり、クラス替えや新しい担任の先生にもすっかり慣れていた羽束澪(はつか みお)は、学校生活を穏やかに楽しんでいた。仲の良い友人たちと過ごす毎日は楽しく、小さな喜びに満ちていた。しかし彼女には一つだけ憂鬱なことがあった。それは水泳の授業だった。
澪は水が嫌いなわけではない。むしろ、羽束川の川辺で静かに水と触れ合う時間を心から愛していた。川のせせらぎや水面の光、石の間をすり抜けていく冷たい流れは、彼女にとって安心できる存在だった。けれど、学校のプールは違った。四角く切り取られた無機質な水の塊は、冷たく、底知れない闇のような深さを持っているように感じられた。
夏が訪れ、その年最初の水泳の授業の日がやってきた。朝から蝉が鳴き、校庭には夏特有の白い光が降り注いでいた。プールサイドに整列すると、コンクリートの床が陽射しで熱を帯び、足裏にじりじりとした感触が伝わる。澪は照りつける太陽の眩しさに目を細めながら、胸の奥に広がる緊張を抑えきれなかった。
次々と水に飛び込む友達の歓声や水しぶきが、心の距離をさらに広げる。「楽しそうだな」と思う一方で、自分がその中に飛び込む姿は想像できなかった。水面に映る陽光は美しくも、プールの底に広がる濃い青は、彼女の足を縛り付けるようだった。
「澪さん、無理しなくてもいいからね」
背後から聞こえた先生の優しい声は、本来なら救いのはずだった。しかし澪にとって、それは周囲の視線を集める合図のようにも感じられた。クラスメイトの何人かがこちらを振り返る気配に、心臓が早鐘のように鳴った。授業の終わりまで、彼女は結局水に入ることができず、濡れないまま静かに列の後ろに戻った。
放課後、帰宅の途中で澪は羽束川へ足を向けた。川辺に降りると、蝉時雨の合間に混じる水音が迎えてくれた。川の水はいつも通り穏やかで、透き通った流れの中で小石や水草がゆらゆらと揺れている。澪はしゃがみ込み、そっと指先を水に浸した。肌に触れる冷たさは、プールのそれとは違い、なぜかやさしく、包み込むようだった。
「どうしてプールはこんなに怖いんだろう…」
声に出すと、その疑問は水面に落ち、波紋になって静かに広がっていった。澪は両手で水をすくい、光を含んだ粒が指の間からこぼれ落ちる様子を見つめた。ここでは、冷たさが安心に変わる。川とプールの違いが、頭ではなく心でわかる気がした。
次の日も水泳の授業はやってくる。澪は川辺の草に腰を下ろし、風に揺れる木々や水面に映る青空を見上げた。蝉の声の奥で、川の流れが変わらぬリズムで続いている。学校のプールは無機質で冷たく、川は生命の気配に満ちている。その違いをはっきりと感じながら、澪は自分の中にある恐怖の正体を探っていた。
やがて、川のせせらぎや頬を撫でる風の音が、澪の呼吸をゆっくりと整えていった。自然の中で自分がどれほど安心できるかを再確認しながら、澪は心の奥で静かに決意した。――少しずつでいい、自分のペースで水と向き合っていこう。
川面に反射する夕陽がきらきらと輝き、澪の瞳にも同じ光が宿っていた。