兵庫県三田市の郊外を流れる羽束川は、静かでゆったりとした水の流れを保っている。その川辺は豊かな緑と季節の花々に囲まれ、訪れる人々に安らぎを与える特別な場所だった。
羽束澪(はつか みお)が初めてその川辺を訪れたのは、まだ幼い頃のことだった。母の手を握り、小さな足で慎重に柔らかな草地を踏みしめながら、水のすぐ近くまで近づいていった。澪は水というものに対して、まだはっきりとした印象を持っていなかったが、それでも不思議な興味を抱いていた。
母がそっと促すように微笑むと、澪はゆっくりとしゃがみ込み、恐る恐る指先を水面へと近づけた。指先が水面に触れた瞬間、予想以上に冷たい感触が小さな体を震わせた。しかしそれは不快ではなく、驚きと同時に心地よい安堵をもたらすものだった。
「冷たいね、澪。でも気持ちいいでしょう?」
母の優しい声が耳元でささやくように響き、澪は小さく頷いた。指先から伝わる冷たさが、まるで自分の心の奥深くに静かに溶け込んでいくような感覚を覚えたのだ。
水面をじっと見つめると、自分の顔がかすかに映っているのがわかった。その顔はどこか不思議なほど穏やかで、いつものように内気で引っ込み思案な自分とは少し違うように見えた。
川のせせらぎ、遠くから聞こえる鳥のさえずり、ゆったりとした時間の流れ――そのすべてが、澪の小さな心を静かに包み込んでいた。
やがて母がそっと立ち上がり、手を差し伸べる。
「また来ようね」
澪は再び小さく頷き、母の手を握った。その帰り道、胸の中には言葉にならない何か大切なものが静かに芽生えていた。この日以来、水という存在が澪の人生の中で特別な意味を持ち始めていたことを、まだ澪自身も知らなかった。