1 (07) 川の流れ、心のゆく

 説明会の翌朝、勝道は夜明けとともに宿舎を抜け出し、大谷川の川辺に立っていた。

 淡い霧が水面を覆い、川の流れは静かに、しかし確かに音を立てている。夜の冷気がまだ漂う中、朝日が少しずつ射し込み、周囲の木々の輪郭を浮かび上がらせていた。透明な流れは、まるで時の鼓動のように一定のリズムで進んでいく。

 勝道は、昨晩の稲葉教授との対話を反芻していた。

 ――「技術がもたらす変化は人を不安にさせる。その不安にどう向き合い、どう言葉を紡ぐか」

 頭では理解していても、その言葉を自らの血肉に変えるには、まだ距離がある。川の流れを見つめていると、自分の迷いや不安がその水音に重なって聞こえてくるようだった。

 しばらく川沿いを歩き、古びた木製のベンチに腰を下ろす。水面は薄明に照らされ、鏡のように揺らめいている。勝道はぼんやりとそれを眺めていた。

 そのとき、背後から足音が近づいた。振り返ると、昨日の説明会で温泉への懸念を口にした年配の男性が、ゆっくりと歩いてきた。

 「おはようございます。細尾電力の若い方ですね」

 男性の声は落ち着いており、柔らかい温かみを帯びていた。勝道は立ち上がり、礼をして答えた。

 「おはようございます。昨日はありがとうございました。皆さまのお話を聞いて、考えることがたくさんありました」

 男性は勝道の隣に腰を下ろし、川面を見つめながら口を開いた。

 「私はこの川の近くで生まれ、ずっとこの土地で暮らしてきました。川というのはね、ただ流れているように見えて、人の一生とよく似ている。時に静かで、時に荒れ、時には人の力を押し流すほどに暴れる。だが、その厳しさが私たちに自然との付き合い方を教えてきたんです。完全に制御することはできない。でも、共に生きる道はある」

 彼は遠く川上を指さすように見やり、続けた。

 「地熱や天然ガスの発電を否定するつもりはない。ただ、技術だけが先を走り、自然や人の暮らしが置いていかれるのが怖いんです。だからこそ“どうやって一緒に歩くか”を探したいんです」

 勝道は深く頷いた。教授の言葉と、この男性の声が重なり合い、胸の中に静かに沁み込んでいく。技術は人を不安にさせる。だが、その不安は拒絶ではなく、愛情から生まれている。男性の目に宿る光は、ただの懸念ではなく、長い年月をこの川と共に生きた者の慈しみだった。

 男性は小さく息を吐き、笑みを浮かべた。

 「君のような若い技術者が、これから地域を背負う。責任は重いだろう。不安も多いはずだ。でも技術が地域に馴染むためには、まず君自身がこの土地を深く知り、愛することだと思う。自然も人も、心を開いて向き合えば、道は見える」

 その言葉に、勝道ははっきりと胸を打たれた。教授が語った理念が、今ここで、この川辺の暮らしの言葉として繋がったのだ。

 やがて男性は立ち上がり、川沿いの道をゆっくりと去っていった。背中は小さくなっていったが、その言葉は川の音と共に、勝道の胸に残り続けた。

 大谷川の流れは相変わらず穏やかで、ただ静かに時を刻んでいる。その流れは、過去の記憶も未来の希望も抱き込みながら、決して留まらない。

 勝道は胸の奥に芽生えた新しい感情を確かめた。それは、技術者としての責任感であり、この土地と人々に寄り添いたいという共感だった。

 立ち上がり、宿舎へ戻る道を歩き出す。草花は朝の光に照らされ、淡く揺れている。昨日よりも歩みは少し軽かった。
 (まだ答えは見つからない。でも、この道を歩き続ければ、必ず見えてくる)

 穏やかな川の流れは、境界を越えて輝く星々のように、彼の胸の内に静かな覚悟を刻みつけていた。

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