静かな黄昏が大多喜町を包み始めた頃、浪平は篠原拓也に勧められた宿「ロヴァン」へと歩みを進めていた。ゆるやかな坂道の上に、その宿は静かに佇んでいた。外観は古民家を改装した木の温もりに満ちており、窓からこぼれる柔らかな灯りは、町に新しい息吹が流れ込んでいることを静かに告げていた。
玄関を開けると、木の梁と土壁の香りがふわりと漂った。古き良き日本家屋の骨格を残しつつも、モダンな意匠が施されており、素朴さと洗練が調和している。木の床は丁寧に磨かれ、照明は暖かな光で空間を包んでいた。時間がゆっくりと積み重なった場所を、新たな形で受け継ぐ――そんな象徴のような空間だった。
「ようこそお越しくださいました。」
スタッフの穏やかな声に振り返ると、柔らかな笑顔が浪平を迎えた。その笑顔には、都会では味わえない距離の近さと温もりがあった。浪平の胸にあった緊張は、自然と解けていった。
案内された部屋は、古い蔵をリノベーションした一室だった。漆喰の壁には歴史の痕跡が刻まれ、天井の太い梁は時を超えて空間を支えていた。家具はシンプルながら品があり、余白の美しさが漂っている。浪平は窓際の椅子に腰を下ろし、流れる静かな音楽を耳にしながら呼吸を整えた。かつての故郷とは思えぬほどの新鮮さに、胸が震えた。
やがて夕食の時間となり、浪平はダイニングに足を運んだ。広い窓の外には、山々が夕闇に溶け込むように浮かび上がり、深い緑と藍が溶け合う風景が広がっていた。柔らかな灯りの下、テーブルには彩り豊かな料理が並んでいた。
「今日のお料理は、すべて大多喜で採れたものです。自然の恵みを味わっていただければと思います。」
スタッフの言葉とともに、地元野菜のサラダの瑞々しさ、タケノコを焼いた香ばしい香り、そして天然ガスの火で炊き上げられた米の湯気が、浪平の感覚を一つ一つ刺激した。口に運ぶと、食材そのものの力強さが舌を満たし、同時に心の奥にも染み渡っていくのを感じた。
「いかがですか?」
声をかけてきたのは、宿のオーナーと思しき男性だった。落ち着いた物腰と深い眼差しの中に、町を愛する者の誇りが漂っていた。
「とても美味しいです。これが全部、大多喜の恵みなんですね。」
浪平の言葉に、オーナーは静かに頷いた。
「はい。この宿を通じて、町の豊かさと可能性を伝えたいのです。都会で疲れた人、自分を見失った人が、ここでひととき休み、自分を取り戻す。そんな場所でありたいと願ってきました。そして――この宿も町も、次の世代に繋いでいきたいんです。」
その言葉に、浪平の胸に小さな波紋が広がった。自分もまた今、この場所で、自分を見直す過程にあるのだと気づかされた。
食事を終えて部屋に戻ると、窓の外は深い藍に染まり、夜空には無数の星が瞬いていた。風が蔵の壁を撫でる音が、どこか町そのものの声のように響いた。
浪平は机に座り、ノートを開いた。
『この町は、自分が思っていたよりもずっと美しく、穏やかで、可能性に満ちている。人々の優しさと誇りに触れ、町を愛している自分に気づいた。自分にも、何かできることがあるのだろうか。』
書き終えた文字を見つめながら、浪平は深い呼吸をした。
町の夜は穏やかで、心に染み入る静けさがあった。
――大多喜に戻ってきて、本当に良かった。
小さく呟いた声は夜の闇に溶け、星々の瞬きに寄り添うように響いた。
宿り木のように穏やかなこの夜は、浪平に新たな夢と希望を宿しながら、更けていった。