季節はゆっくりと夏の終わりを迎えつつあった。
細尾勝道は、細尾水力発電所の制御室で主任の山本と並び、午前中の点検結果を黙々と記録していた。遠くから発電機の低く安定した回転音が響き、壁の計器は規則正しく針を振らせている。静かな空間に、時折ペン先が紙を走る音だけが混ざった。
記録を終え、背もたれに身を預けた勝道が小さく息をついたとき、主任がふと思い出したように声をかけた。
「そういえば細尾君、君に新しい仕事が入った」
「新しい仕事……ですか?」
主任はわずかに口角を上げ、ゆっくりとうなずいた。
「大谷川発電所で新しいプロジェクトが動き出す。その件で地域説明会が開かれるんだ。君にもぜひ参加してほしいと、本社から頼まれている」
勝道は思わずペンを握り直した。
「大谷川発電所の……新しいプロジェクト?」
「これまでの水力だけじゃない。地熱や天然ガスとの複合発電を検討しているそうだ。大谷川流域に地熱の可能性が見つかって、東京帝都大学と共同で調査を進めているらしい」
主任の言葉を聞きながら、勝道の胸の奥で何かがざわめいた。未知の技術への好奇心と、それがもたらす変化への漠然とした不安が、同時に芽生えていた。
主任はその表情を見逃さず、やわらかく笑った。
「わかるよ。俺も最初はそうだった。でもな、これからは新しいエネルギーの可能性を真剣に考えなければいけない。技術が変われば、地域の暮らしも変わる。君は若いし柔軟だ。きっといい経験になる」
翌朝、まだ薄暗い時間に、勝道は主任の運転する車に乗り込んだ。町並みを抜けるとすぐに山道となり、窓からはひんやりとした朝の空気が流れ込む。夏の名残を抱いた森は深く、葉の緑は陽を受ける前から濃く息づいていた。道の両側を覆う木立の隙間から、大谷川の流れが時折顔を覗かせ、その水面は銀色の糸のように揺れている。
「大谷川発電所は初めてか?」
「ええ。名前は知っていますが、実際に行くのは今日が初めてです」
「昔から静かな場所だ。川は地元の人にとって誇りであり、生活の一部だ。だから、新しい技術を入れることに慎重な人も多い。説明会では、きっといろんな声が出るだろう」
森を抜けると、突然視界が開け、川が全貌を現した。水は驚くほど透明で、底の丸石や水草まではっきりと見える。川の両岸には初秋の野花が揺れ、山影を背景に小さな発電所がひっそりと佇んでいた。外壁は自然の色に合わせた淡い灰緑色で、遠目には森の一部のように見える。
車を降りた瞬間、湿った草の匂いと川のせせらぎが全身を包んだ。勝道はしばらく言葉もなくその場に立ち、耳を澄ませた。
主任が肩越しに言った。
「美しいだろう。この景色を壊さずに新しい技術を入れる。それが簡単じゃないことは、君にも分かるはずだ」
川面に陽光が射し込み、流れの一部がきらりと光った。勝道はその輝きを見つめながら、自分が明日向き合うであろう「境界線」を思った。守るべき自然と、変化を求める技術。そのあいだで、自分はどちらの側に立つべきなのか。
その晩、発電所近くの簡素な宿に泊まることになった。窓を開けると、夜の川音が静かに響いている。遠くでフクロウの声が一度だけし、すぐに闇が深まった。
(新しい技術が、この川や地域の暮らしを変えてしまうかもしれない。自分たちは正しい選択ができるのだろうか)
答えはまだ見えなかった。ただ、明日の説明会が、自分にその答えを探す一歩を踏ませるのは間違いない――。
川の音に包まれながら、勝道は静かに目を閉じた。