東京の空は、夕刻になるとゆっくりと淡い灰色に染まっていく。
その色には、終わりを告げる鐘のような静けさと、喪失に似た感傷が混ざっていた。
赤沢浪平は、小さな机の前でパソコンの画面を見つめていた。表示されているのは、千葉県大多喜町――彼の故郷についての記事だった。淡々と並ぶ文字は、彼がこれまで目を背けてきた町の現実を無慈悲なまでに映し出していた。
大多喜町は、水資源と地下から湧き出す天然ガス、そしてヨウ素という世界的にも稀少な元素を産出する土地。だが浪平は、幼い頃からそれらに価値を感じず、「何もない場所」と決めつけていた。そこを出て都会で成功することだけが、唯一の夢だった。
――自分は、どれだけ無知だったのだろう。
胸の奥で鈍い痛みがじわりと広がる。
これまで彼は、都会的な成功や華やかな名声という曖昧な光だけを追いかけ、足元に広がる大地を見ようとしなかった。今、初めてその土の重みと温度に触れた気がした。
翌日、浪平は大学の図書館に足を運んだ。
静かな書架の列は、長い年月を積み重ねた木の香りを漂わせている。背表紙に指先を滑らせながら、彼は大多喜町の資源や歴史に関する資料を探した。
「あれ、赤沢君じゃないか?」
穏やかな声に振り返ると、稲葉教授が立っていた。
柔らかな眼差しの奥に、学生を包み込むような温かさがあった。
「あ、教授。こんにちは……。」
「君が図書館にいるのは珍しいな。何を探しているんだい?」
浪平は少し躊躇した後、静かに答えた。
「故郷のことを調べていました。天然ガスやヨウ素があると最近知って……少し興味が湧いて。」
教授の顔に微かな笑みが浮かぶ。
「それはいいことだ。大多喜町は実に興味深い土地だよ。資源がある地域は、日本の中でも数えるほどしかない。エネルギー政策や地域振興という観点からも重要だ。」
教授は書棚から数冊の資料を抜き取り、浪平に手渡した。
「これは地域資源やエネルギー政策に関する論文だ。読んでみるといい。君がまだ知らない故郷の顔が見えてくるはずだ。」
浪平は深く礼をし、資料を抱えて席に戻った。ページをめくるたびに、故郷が遠くの景色ではなく、自分の足元へと近づいてくる感覚があった。
講義が終わり教室を出ようとすると、意外にも同級生の一人が声をかけてきた。
「赤沢、最近よく図書館にいるな。何か調べてるのか?」
浪平は少し迷った後、故郷の話をした。同級生の目が輝く。
「大多喜か。天然ガスの話、面白いな。俺も地域資源に興味あるんだ。今度詳しく聞かせてくれ。」
その何気ない言葉が、不思議と心に沁みた。これまで感じてきた孤独が、少しずつ薄れていく。孤立という殻を作っていたのは、自分自身だったのかもしれない――そんな思いが芽生えた。
夜、浪平は久しぶりに故郷の両親に電話をかけた。
受話器の向こうから、母の落ち着いた声が聞こえる。
「町は静かなままよ。でも、若い人は減っていくばかり。資源はあるのに、活かしきれていないの。」
父の低い声が続く。
「大多喜にはもっと可能性がある。だが、それに気づいて動ける人間が少ない。まあ、そういう町は多いがな……。」
両親の声は、浪平の胸の奥に静かに沈んでいった。
これまで避けていた現実が、今は鋭く形を持って迫ってくる。
電話を切った後、窓辺に立つと東京の夜景が広がっていた。だが、その光はどこか空虚に見えた。浪平の視線は、見えないはずの大多喜町の闇と、その中に眠る光へと向かっていた。
――自分は、何をすべきなのだろう。
答えはまだ形にならない。それでも胸の奥に、小さな熱が芽生えていた。
電気工学を学ぶこの手で、故郷の資源を活かせる未来があるのではないか――そんな予感が、確かに息づき始めていた。
淡い星空の下で、赤沢浪平は静かに、自分の属すべき場所の輪郭を見つけ始めていた。