1章 (02) 見えない糸がつなぐもの

赤沢浪平が教室に入ったとき、東京帝都大学のキャンパスは春の朝のざわめきに満ちていた。桜はすでに花を落とし、若葉が新しい季節を告げるように風に揺れている。浪平は自然と教室の後方、窓際の隅に腰を下ろした。

大学二年目を迎えても、彼はまだ自分の居場所を見つけられずにいた。理工学部電気工学科の同級生たちは、皆が迷いなく未来を見据えているように見える。その輝きが、浪平には少し遠く感じられた。

やがて教壇に稲葉教授が立ち、穏やかな声が教室を満たした。小柄で眼鏡の奥に温かな知性を宿す教授は、いつも淡々と語りながらも、聞く者を引き込む力を持っていた。

「今日は日本の近代化、特に明治から大正にかけての水力発電の発展についてお話ししましょう。」

浪平の胸が微かに高鳴った。昨日ふと手に取った『電力発展史』のページが脳裏に蘇る。

「当時、久原房之助が所有していた日立鉱山は、採掘機械や精錬設備を動かすために莫大な電力を必要としていました。しかし既存の発電所では供給が追いつかなかったのです。」

教授は一拍置き、黒板にチョークを走らせた。

「この難題に挑んだのが、小平浪平という技術者です。彼は東京帝国大学電気工学科を1900年(明治33年)に卒業後、秋田県の小坂鉱山で電気技師として経験を積み、その後広島水力電気、東京電燈を経て、1906年(明治39年)に日立鉱山へ入りました。」

浪平は、自分と同じ名を持つ人物の経歴を、息を殺すようにして聞いた。

「着任した小平は、ただちに水力発電の整備を推し進めます。1906年に久慈川支流・里川の水利権を取得、翌年には中里第一発電所を、1908年には中里第二発電所を、1909年には町屋発電所を建設しました。」

浪平は目を閉じ、山あいに立つ発電所と、そこから生まれる電気が遠い町や工場を照らしていく光景を想像した。

「それでも足りず、1911年には大北川の水利権を取得。日本初の鉄筋コンクリート製水路式水力発電所『石岡第一発電所』を完成させます。当時の日本では画期的な技術でした。」

稲葉教授の声は落ち着いていたが、その言葉には確かな熱がこもっていた。

「1913年には石岡第二発電所も完成し、これらが後の日立製作所の原点となります。」

授業が終わっても、浪平は席を立てずにいた。教授が近づき、静かに問いかけた。

「赤沢君、何か心に引っかかったかな?」

「……はい。授業を聞いていて、小平浪平という人に、不思議と強く惹かれました。」

教授は目を細め、少し笑みを見せた。

「名前が同じというのは、面白い縁だね。ところで、君の『赤沢』という名字も珍しい。何か由来はあるのかい?」

「……特に意識したことはありません。千葉の大多喜町の出身ですが。」

教授は軽く頷いた。

「名前とは、不思議な羅針盤のようなものだ。時に自分でも知らなかった道を指し示すことがある。時間があれば、調べてみるといい。」

その言葉が、浪平の胸の奥に小さな波紋を広げた。

教室を出ると、同級生たちの笑い声がキャンパスの空気を揺らしていた。浪平はその輪に加わらず、ふと足を植物園の方へ向けた。

春の植物園は、芽吹きの緑と土の香りに包まれていた。奥まった小径の先で、古びた展示板が目に入る。
『明治期の東京帝国大学と日本の電力開発』――そこには、小平浪平の経歴が簡潔に記されていた。

東京帝国大学卒業、小坂鉱山、広島水力電気、東京電燈、そして日立鉱山での活躍。事実だけを淡々と並べた文章なのに、その背後に膨大な時間と情熱が流れているのを感じた。

その瞬間、故郷・大多喜町の光景が胸に浮かんだ。清らかな川の音、ヨウ素の匂い、天然ガスの噴き上がる音――長く無関心だったそれらが、急に生きた記憶として蘇る。

――自分は、何を見落としてきたのだろうか?

浪平は小さく息をつき、心の中で呟いた。

「もう少し、自分のルーツを調べてみよう。」

その言葉は、まだ形にならない未来への扉を静かに押し開ける合図のようだった。
白い空の下、赤沢浪平は確かに、新しい一歩を踏み出していた。

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