日光の朝は、呼吸まで澄み渡る。
夜明け前、山あいの空気はまだ冷たく、細尾勝道の吐息は白く薄く漂い、やがて静かに消えていった。東の空がわずかに明るみを帯び、男体山の輪郭が薄明の中から浮かび上がる。山頂から流れ落ちる冷気が、まだ眠る町を包み、あらゆる音を遠ざけていた。
「男体山さま、おはようございます」
彼はこの時間、必ず山に向かって小声で挨拶する。それは祖母から受け継いだ習わしであり、日光で生まれ育った者の自然な朝の所作だった。男体山は山岳信仰の象徴であり、町の人々にとっては神そのものだった
祖母はよく語った。
――この日光を開いたのは、勝道上人という偉いお坊さまだよ。お前の名前は、その方からいただいたんだ。だから、名前に恥じぬように生きなければならないよ。
その言葉を告げるときの祖母の眼差しは、慈愛に満ちながらも、どこか鋭く、揺るぎない決意を秘めていた。その重みを、勝道はまだ完全には理解できずにいた。
日光総合高校を卒業後、彼は細尾地区に本社を置く「細尾電力株式会社」に就職した。四つの水力発電所を運営する地域の中核企業だ。入社二年目の今、彼の勤務先は、その中でも最も古い歴史を持つ「細尾水力発電所」だった。
この発電所の歴史は、明治時代初頭にまでさかのぼる。当時、足尾銅山の鉱石精錬に必要な電力を供給するため、地元資産家らが設立した「日光水電製錬所」が、その始まりだった。男体山や中禅寺湖の水を力に変え、銅を溶かし、鉄路で運ぶ。繁栄の影には鉱毒問題という深い傷跡も残されたが、その歴史は地域の記憶の一部として刻まれ続けている。
発電所に着くと、主任技術者の山本が入口で出迎えた。
「おはよう、細尾君」
「おはようございます、山本主任」
「今日も早いな。若いのに感心だ」
主任の声には、厳しさと温かさが同居していた。勝道にとって山本は、技術者としてだけでなく、人としての姿勢をも教えてくれる存在だった。
館内を巡回すると、低く唸る水車の音と、流れ込む水の響きが混ざり合い、耳に馴染むリズムを奏でている。勝道の視線は、壁に掛けられた一枚の古い写真に留まった。「日光水電製錬所」時代の技術者たちが並び、いずれも目に強い光を宿している。
「昔の人たちは、どんな思いで電気を送っていたんでしょうね」
勝道の呟きに、山本が答える。
「暮らしを変える力を信じていたんだろうな。ただし、鉱山と電気がもたらしたのは、豊かさだけじゃない。川の魚も、田の稲も、失われた。だからこそ、何のために電気を作り、誰に届けるのかを、私たちは常に考えなきゃならない」
その言葉は勝道の胸に静かに沁み込んだ。
夕暮れ、発電所を後にし、自転車を漕いで帰る道すがら、祖母の話を思い出した。
――中禅寺湖は神さまの湖だった。昔は女人禁制で、女は湖畔に近づけなかった。それが今は観光地になってしまった。湖は今も美しい。でも、そこに神さまがいるのか、私にはもうわからない。
何かを得ることは、同時に何かを失うことでもあるのかもしれない。昔の人々が夢見た未来と、今自分が見つめる未来。そのあいだで失われたものは、何だったのだろう。
勝道は自転車を止め、夕陽に染まる男体山を仰ぎ見た。その山影は、胸が痛くなるほど美しかった。
「俺はまだ、この町のことも、自分の名前の意味も、何も知らないんだな……」
その瞬間、小さな問いが心に芽生えた。日光の歴史を深く辿れば、今の自分が何者で、何を成すべきかが見えてくるのだろうか。
彼の背負う名前には、この町を切り拓いた勝道上人の意志が込められている。だが、自分が切り拓くべき道は何なのか。それを探す旅は、まだ始まったばかりだった。
ゆっくりと動き出した物語の最初の一歩を踏み出した勝道を、男体山は変わらぬ静けさで見守っていた。その背後では、まだ見ぬ人々の物語と、未来の出来事が、静かに動き出そうとしていた。