1章 (05) 風薫る季節に

4月中旬の市川三郷町は、一年の中でも特に穏やかで美しい季節を迎えていた。山々の緑は日に日に鮮やかさを増し、町を流れる富士川や芦川の川面には、きらめく光が反射していた。桜はすでにその役目を終え、道端では菜の花やレンゲが風に揺れながら彩りを添えている。どこか懐かしい甘い香りと、柔らかな風の感触が町全体を包み込んでいた。

その朝、みさとはいつもより少し早く目を覚ました。窓を開けると、ひんやりと澄んだ空気が部屋の中へ流れ込み、彼女の頬を優しく撫でる。胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込むと、身体の奥まで清らかさが染み渡っていくようで、思わず微笑みがこぼれた。

朝食を済ませ、自転車に乗って「和紙工房 ゆらぎ」へ向かう道すがら、通りの向こうから明るい声が響いた。

「おはよう、みさとちゃん!」

振り返ると、和紙工房の経営者である佐藤和子が、穏やかな笑顔で手を振っていた。地元で誰からも信頼される存在であり、みさとにとっては尊敬する人生の先輩でもあった。

「おはようございます、佐藤さん!」

元気よく挨拶を返すと、自然と背筋が伸びる。彼女はこの町の伝統を支える仕事の中に、自分の居場所を見いだしつつあった。

工房に到着すると、すぐに作業が始まった。その日は大手ホテルから特別注文を受けており、宿泊客向けに高級和紙の便箋を仕上げるという重要な依頼だった。工房全体に緊張感が漂い、みさとも自然と集中して手を動かしていた。便箋を一枚一枚丁寧に検品し、包装していく作業は地道で繊細だが、不思議と心が落ち着いた。

「みさとちゃん、手つきがずいぶん慣れてきたわね。もう一人前よ」

佐藤の言葉に、みさとは少し照れながらも、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます。私、この仕事がとても好きなんです。町の伝統を守れることが誇らしくて」

佐藤は柔らかく頷き、遠くを見るように言葉を続けた。
「私も若い頃は、この町が嫌で仕方なかった時期があったの。でもね、外に出て、離れてみて初めて、この町の本当の良さに気づいたのよ」

その言葉は、みさとの心に静かに響いた。

「離れてみないと気づかない良さ……」

小さく呟いた自分の声に、まだ答えを持てない迷いを感じ取った。

昼休み、みさとは工房近くの川沿いにある小さなベンチに腰掛けた。コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、富士川を見渡す。川面に映る空は青く澄み、風に揺れる波紋がゆっくりと広がっていく。子どもの頃、兄や友達と石を投げ合って遊んだことや、夏に家族でスイカを食べた記憶がよみがえる。その懐かしい時間が、今も自分を支えているのだと気づかされた。

午後の作業を終え、工房を出ようとした時、再び佐藤に声をかけられた。

「みさとちゃん、今度の連休に工房でイベントをしようと思ってるの。和紙づくりを町の人たちに体験してもらいたくて。もしよかったら、手伝ってくれる?」

「もちろんです!楽しそうですね」

即座に答えると、佐藤は嬉しそうに微笑んだ。

「若い人の力が必要なの。みさとちゃんのように町を大事に思ってくれる人がいてくれると、本当に心強いわ」

その言葉に、胸の奥が温かく満たされるのを感じた。自分もまた、この町の魅力を伝える一員になれるのかもしれない。そんな希望が芽生えた瞬間だった。

帰り道、夕焼けに染まる空を見上げながら、みさとは小さく呟いた。

「この町は大好き。でも……もっと広い世界を見たら、私はどう感じるんだろう」

その問いの答えはまだ見つからない。けれども、春風に揺れる心は確かに新しい扉を叩き始めていた。

市川みさとの小さな迷いと憧れは、やがて彼女を大きな選択へと導いていく。今はまだ、その序章が静かに風に乗って流れ出したばかりだった。

免責・権利表記(Research Edition)

本サイト群(FELIX, Qchain, Nozomi Website Series – Research Edition)は、個人が趣味・研究目的で運営するウェブサイトです。あらゆる組織・団体・企業・教育機関とは一切関係がありません。

掲載内容は個人の見解であり、投資・取引・契約・勧誘・誘導を目的とするものではありません。投資その他の意思決定は自己責任で行ってください。情報の正確性・完全性・最新性は保証しません。

本サイトの文章・画像・構成等の著作権は運営者に帰属します(特記なき場合)。無断転載・複製・改変を禁じます。引用する際は出典を明記してください。

本サイトの利用により生じたいかなる損害についても、運営者は一切の責任を負いません。

© 2025 Research Edition / Non-commercial, research purpose only.