東京駅のホームは、朝の喧騒に包まれていた。足早に行き交う人々の間をすり抜け、赤沢浪平は指定席の車両へ向かう。ドアが閉まると同時に、列車はゆっくりと動き出した。ホームのざわめきが遠ざかり、車内に静かな揺れが広がる。その瞬間、浪平は東京という巨大な街の喧騒から切り離され、自分の内面に向き合う時間へと入り込んだ気がした。
窓の外の景色は、高層ビル群から低層の住宅街へ、そして広がる田畑へと少しずつ変わっていく。
房総半島の内陸に近づくにつれ、里山のなだらかな丘陵は緑を濃くし、水田は鏡のように春の空を映していた。そこに点在する小さな集落は、息をひそめるように静かで、それでいて確かに生きている。
浪平は、幼い頃にこの風景をぼんやり眺めていた自分を思い出す。あの頃は退屈で、無意味に思えた景色。だが今は、その柔らかな光と影が、心の奥に沁み込んでくる。
――なぜ、これほど美しい故郷に気づけなかったのだろう。
東京の光ばかりを追い、故郷を見下してきた自分の浅さを、浪平は静かに噛み締めた。
養老渓谷に差し掛かると、渓流の水面が陽を反射してきらきらと輝き、淡い緑の木々が岸辺を縁取っていた。澄み切った水の流れは、遠くにいても耳に届くような気がした。その音が、忘れかけていた感覚を呼び覚ます。
やがて列車は大多喜駅に滑り込み、ブレーキの低い唸りが止まる。ホームに降り立った瞬間、浪平は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。土の匂いと新緑の香りが混ざった空気は、都会では決して味わえない濃さだった。駅前は以前より賑わい、観光客の笑い声が柔らかく響いている。
広場を歩くと、新しいカフェや、木の温もりを活かした土産物店が目に入った。店先には地元の特産品が並び、彩り豊かなラベルや手書きのPOPが目を引く。その活気は、かつて浪平が知っていた停滞した町とはまるで別物だった。
「赤沢くん、ひさしぶり!」
振り返ると、中学時代の同級生・篠原拓也が笑顔で立っていた。今は「まちおこし隊」のメンバーとして町の活性化に取り組んでいるという。
「帰ってきたんだな。東京はどうだ?」
「まあ、悪くはないけど……」
曖昧に返すと、拓也は嬉しそうに笑った。
「ちょうどいい。今の大多喜を君にも見てもらいたいんだ。」
拓也に案内され、二人は町を歩き出す。道沿いでは若者たちが地元野菜を売る市を開き、観光客が足を止めている。
大多喜城に近づくと、城跡の周辺は整備され、芝生には子どもたちが走り回っていた。
「最近は資源や歴史を活かした観光が盛んでさ、首都圏からも人が来るんだ。若い人も少しずつ戻ってきてる。希望はあるんだ。」
拓也の声には、確かな手応えが宿っていた。浪平はその言葉と町の光景を重ね合わせながら、自分が抱いていた故郷のイメージが音を立てて崩れていくのを感じた。
東京では「何もない」と思っていたこの町には、実際には豊かな暮らしと挑戦が息づいている。人々は笑顔で働き、町はゆっくりだが確実に変わろうとしていた。
その夜、実家の窓辺に座る浪平は、遠くの蛙の声を聞きながら静かに考えていた。東京の白い空の下では見えなかった、故郷の可能性が、今は手に触れられる距離にある。
――自分はまだ、この町を知らない。もっと深く知りたい。
そう心に誓うと、胸の奥に小さな火が灯った。それは、この町を知ることが自分を知ることにつながるのではないかという予感だった。
春の夜は柔らかく更け、大多喜の空に瞬く星々が、その火をそっと見守っているようだった。