1章 (03) 境界線を越えて

承知しました。
では第03話を、情景の密度・伏線・内面描写を強化し、後の展開につながる厚みを持たせた完全版としてお届けします。


第一章(03)境界線を越えて

 朝陽が男体山の峰を静かに照らし始める頃、細尾勝道は霧降上宮発電所への巡回点検に向かっていた。
 助手席から眺める街並みは薄い霧に包まれ、瓦屋根も、軒先に干された洗濯物も、色を失ったまま静止画のように漂っている。運転席の山本主任は、いつもの穏やかな表情を浮かべ、ハンドルを握る手に迷いはない。エンジンの低い唸りとタイヤの路面をなぞる音が、霧の中に吸い込まれていく。

 今回訪れる霧降上宮発電所は、華厳の滝直下の取水設備から水を引き、最初に発電する施設だ。

 「霧降『上宮』と『下宮』……名前に意味があるんですね」

 何気なく口にした勝道の言葉に、主任が横目で笑った。

 「鋭いな。上宮はかつての神域、下宮は人間の領域だ。女人禁制だった頃の、この地域の歴史を映している」

 車は霧降川の流れに沿う細道へと入り、湿った木々の匂いが窓から流れ込んできた。苔むした石垣や古びた橋が点在し、ところどころに野生の鹿が姿を見せる。やがて、小ぶりな発電所の建屋が森の奥から姿を現した。外壁は年月を重ねた鉄板で覆われ、控えめな佇まいながら、手入れの行き届いた設備は周囲の緑と不思議な調和を保っている。

 主任の指示で巡回点検を終えた後、二人は近くの女人堂跡地へ向かった。湿った土の小径を抜けると、小さな祠と古びた石碑が静かに佇んでいた。石碑には「女人結界之碑」と刻まれ、その文字の溝には長い年月で溜まった苔が埋まっている。
 勝道はその表面を指でなぞった。石の冷たさが指先から腕へ、そして胸の奥へと伝わってくる。

 「人はなぜ、こうして境界線を引くのでしょうか」

 主任は男体山の方へ視線を移し、ゆっくりと答えた。

 「何かを守るためだ。だが、その線が本当に必要だったのかどうかは、時代が変われば問い直される。そして、線を越える勇気もまた、時に必要になる」

 主任の言葉に、勝道の胸に静かな波が立った。幼い頃、祖母が囲炉裏端で話してくれた声が蘇る。

 ――私の若い頃はね、中禅寺湖にも華厳の滝にも近づけなかったよ。女人禁制だったから。でも今は誰でも行ける。境界線なんて、消えたようで、本当はまだ心のどこかに残っているのかもしれないけどね。

 その時は意味が分からなかった言葉が、今、ここで石碑の前に立ち、霧の匂いを吸い込みながら、ゆっくりと形を成し始めていた。

 帰り道、車内で主任がふと話題を変えた。

 「今度、霧降下宮発電所に揚水発電設備を導入する計画がある。それに、大谷川の発電所も地熱発電を試験的に導入するらしい。天然ガスとの複合利用も視野に入れている」

 勝道は思わず顔を上げた。

 「地熱と天然ガス……随分、大きな変化ですね」

 「水力だけに頼る時代は終わりつつある。発電所も進化しなければ、生き残れない。だが、新しい技術は必ず新しい境界線を生む。それが人の心に引かれるのか、制度や法律に引かれるのかは分からないがな」

 その言葉は、勝道の胸に重く残った。境界線は時代とともに形を変え、消えていくこともあれば、より複雑になって現れることもある。見えない線を越えるのは、決して容易ではない。

 「境界線を越えるには、どんな覚悟が必要なんでしょうか」

 静かに問う勝道に、主任は短く答えた。

 「謙虚さだ。引く側にも、越える側にも。技術は決して中立じゃない。歴史や社会の中で動くものだという自覚がなければ、越えるべき時を誤る」

 やがて車は霧を抜け、細尾の町の屋根が夕陽を受けて輝き始めた。

 家に戻ると、祖母が縁側で編み物をしていた。勝道は隣に腰を下ろし、今日見た石碑や主任の言葉、新しい発電計画の話をゆっくりと語った。祖母は頷きながら、糸を指に絡め、静かに言った。

 「昔の境界線を知ることは、新しい境界線を越える力になるんだよ。お前ならきっと、間違えない」

 その言葉は、まだ完全には理解できない。しかし胸の奥に灯った探究心と決意は、確かな温度を帯びていた。

 男体山の稜線は夕闇に溶け、その下で、過去と未来をつなぐ見えない線が、静かに脈打ち始めていた。

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