山本主任の運転する車は、朝霧の中を静かに進んでいた。日光の街を抜け、いろは坂の緩やかなカーブに差しかかると、窓の外の景色は薄い銀色の靄に包まれ、遠くの木々が霞んで見えた。
「今日は、華厳の滝直下にある取水設備の点検だ。中禅寺湖の水が、あの滝を落ちてすぐに取水される。知っているな?」
「はい、知識としては。でも、現場に入るのは初めてです」
主任は前方に目を向けたまま、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「よく覚えておくといい。あそこは細尾電力の心臓部だ。自然から授かる水を扱う、私たちの仕事の本質に触れる場所だから」
車内には、エンジン音とタイヤが路面をなぞる音だけが響いていた。霧が次第に薄れ、華厳の滝の展望台に近づくと、地の底から湧き上がるような轟音が、窓ガラスを震わせた。勝道は息を呑む。この音の向こうに、何千年も変わらぬ水の落下があると思うと、胸が高鳴った。
車を降り、滝のすぐ下流にある取水設備へ向かう。湿った岩肌に沿った小径を歩き、古びた鉄扉の前に立つと、主任が鍵を回し、重い扉を押し開けた。中からは、ひんやりとした湿気と、低く反響する水音が押し寄せてきた。
設備の中では、華厳の滝を落ちてきた水が静かに導水路へと流れ込んでいた。その水はまず「霧降上宮発電所」に送られ、次いで「霧降下宮発電所」、「細尾水力発電所」、「大谷川発電所」へと順に流れ、何度も発電に使われながら日光の街を照らしている。
主任はバルブや配管の点検をしながら言った。
「この設備が止まれば、全ての発電所が止まる。責任は大きいぞ」
勝道はうなずき、目の前を流れる水を見つめた。澄んだ水面の下には、複雑な流れがうねっている。静かで、しかし絶え間なく、確実に街へ力を送り続けるその姿に、自分たちの仕事の重みを感じた。
点検を終えて外に出ると、滝が視界いっぱいに広がった。水飛沫は細かな霧となり、顔や手に触れるたびに、わずかな冷たさと生気を運んでくる。主任が遠くの岩場を指さした。
「あれが女人堂だ。昔、女性たちはあそこで祈るしかできなかった」
霧の中に、小さな祠がひっそりと佇んでいた。その姿を見た瞬間、勝道は祖母の声を思い出した。
――中禅寺湖は神さまの湖だった。昔は女人禁制で、女は湖畔に近づけなかった。今は観光地になったけれど、神さまはまだそこにいるのかね……。
「なぜ女性は入れなかったのでしょうか」
主任はしばらく祠を見つめ、穏やかに答えた。
「人が作る境界線というのは不思議なものだ。昔の人は神域を守るために線を引いた。だが、その線は時が経てば消える。でも目には見えなくなっても、どこかに残っている。ここを訪れるたび、私はそれを感じるんだ」
その言葉は、勝道の心に深く沈んだ。彼はふと、自分が扱う電気もまた、自然と人間、過去と未来のあいだに引かれた「境界線」の上に成り立っているのではないかと思った。
失われたものと、守り続けるもの。その間で揺れながら、技術は進む。
帰り道、主任は足を止め、滝をもう一度振り返った。
「君がこれから背負う仕事は簡単じゃない。私たちが何かを得るとき、必ず何かを失っている。それでも、失ったものから目を背けてはいけない。いつか必ず、その意味がわかる日が来る」
勝道は返す言葉を見つけられず、ただ深くうなずいた。
(自分はこれから何を得て、何を失うのだろう……)
滝の轟音が、その問いに答えることはなかった。ただ絶え間なく水を落とし続ける音が、静かな誓いのように響いていた。
やがて雲間から差した陽光が滝を照らし、その白い飛沫を黄金色に染めた。勝道はその光景を胸に刻み、主任とともに車へ戻った。
その足取りは、来たときよりもわずかに重く、しかし確かな決意を秘めていた。