羽束澪(はつか みお)が初めて羽束川を訪れた日以来、その場所は彼女にとって特別な空間になった。まだ幼い澪には時間の流れなど意識する術もなかったが、それでも川辺に立つと、日常とは異なる心地よい時間が流れていることに気付いていた。
羽束川の川辺はいつも穏やかで、優しく澪を迎え入れてくれた。週末になると母の手を引き、川へ行くことをねだった。川の流れはゆったりとしていて、水面はまるで鏡のように空の色を映し出す。周囲を覆う木々の緑は鮮やかで、時折吹き抜ける風に揺れる葉音が心地よく響いた。
澪にとって川辺は、言葉では表現できない微妙な感覚を与えてくれる場所だった。幼い心には、友達と遊ぶよりも静かに自然と向き合っている方がずっと心地よい。内気で引っ込み思案な性格ゆえに、人と接するよりも自然の中で静かに佇むほうが安らげたのだろう。
母はそんな澪の気質を理解し、静かに見守っていた。ある時、母は川辺に腰を下ろし、柔らかな声で話しかけた。
「澪、川の流れって面白いよね。ずっと止まらないし、同じところには戻らないのよ」
澪は母の言葉を理解しようとするかのようにじっと水面を見つめた。確かに水は、いつも違った表情をしている。太陽が出ている日はきらきらと輝き、曇った日は静かな灰色に包まれる。風が吹けばさざ波が立ち、静かな日は水面が鏡のように滑らかだった。
その日から、川を訪れるたびに母の言葉を思い出すようになった。自分もまた、いつの日か川の水のように流れていくのだろうかと、澪はぼんやり考えるようになった。
ある日、川辺で小石を見つけた澪は、それをそっと拾い上げ、水面に向かって投げ入れた。石が水に落ち、小さな音を立て、静かな波紋がゆっくりと広がる。その波紋が消えていくのを見つめながら、澪は不思議な感覚に包まれた。
小さな自分の行動が川の水面に変化を与える。たとえ小石ひとつでも、水面の様子を変えてしまうのだ。その時、澪は自分もまた小さな存在ながら、何かを変えることができるのかもしれないと静かに感じた。
川辺で過ごす日々は、自然は決して急がず、常に自分のペースで流れていること、小さな自分にもできることがあるかもしれないこと、そして静かな時間の中で自分と向き合う大切さを教えてくれた。
まだ澪自身は気付いていなかったが、羽束川との出会いとそこで過ごした時間は、これから歩む長い人生の静かな序章にすぎなかった。
そしてこの川は、やがて澪に「人との出会い」という新しい流れをもたらすことになる――。