1章 (01) 東京の白い空

東京の白い空

その朝もまた、白かった。
曇り空の白さとは違う。雲の奥に光が潜み、何かが溶け込んだように白濁している東京の空。都会の空気は、朝を決して透明にはしない。薄く霞んだ光が街全体を包み込み、遠くの輪郭を曖昧にしてしまう。

赤沢浪平が目を覚ましたのは、その白が窓辺からゆっくりと部屋に侵入してくる頃だった。寝不足の頭と、不安を抱えた胸の重さを引きずりながら、彼はベッドから身を起こした。スプリングが小さく軋む音が、妙に部屋に響く。

狭いワンルームの机には、昨夜まで広げていた電子回路の基板、開きっぱなしの参考書、そして手つかずのレポート用紙が散乱している。時計を見ると、まだ授業までは時間があった。浪平は無意識に白いカーテンを引き、窓の外を見やった。

東京帝都大学植物園の緑が、まだ朝露をまとったまま静かに佇んでいる。白山の町並みは都会にしては穏やかで、春の柔らかな光が樹々の葉を透かしていた。その景色が一瞬、浪平の心に小さな安堵をもたらした。

コーヒーを淹れる。湯気が立ち上り、香ばしい香りが部屋の空気を満たす。その一口が、ようやく彼の意識をはっきりと目覚めさせた。

――大多喜町。

胸の奥で名前が響いた。
千葉県の中央部にある、生まれ故郷。清らかな水、地下から湧き出す天然ガス、そして希少なヨウ素を産出する土地。だが浪平は、そうした資源を誇りに思ったことは一度もなかった。高校時代、町の資源が自分に何をもたらすというのかと鼻で笑い、むしろその狭さから逃げ出すことだけを考えていた。

政治家になる夢。医学部を目指したが二度の浪人の末に挫折。そして流れ着いた電気工学の道――東京帝都大学。名門と呼ばれるその学び舎で、浪平はなお、自分の居場所を見つけられずにいた。

周囲には、自信と目的を持った学生たちが集まっている。最初はその輪に入ろうと努力したが、少しずつ距離ができ、気づけば彼は教室の隅で目立たぬ存在に収まっていた。

――いつから、こうなったのだろう。

カップを手に窓辺に立ち、ぼんやりと空を眺める。白い光が視界を覆う中、机の上の乱雑な本の山から、一冊の背表紙が目に入った。
『電力発展史――日本の近代化とエネルギー』。授業の課題図書だったが、ほとんど開かずに放置していたものだ。

なぜか、その本を手に取った。ページを無造作にめくる指が、ある一枚で止まった。白黒の写真。
『日立鉱山、中里発電所(明治42年)』――川沿いに建つ発電所の姿が、凛とした空気と共にそこにあった。

次のページには、一人の男の肖像があった。
『小平浪平』――。

心臓がわずかに早鐘を打つ。自分と同じ「浪平」という名。偶然であるはずなのに、奇妙な必然を感じた。写真の中の男は、鋭い眼差しで未来を見据え、胸を張って立っていた。その顔には、迷いを寄せつけない強い意思が刻まれていた。

浪平は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。嫉妬か、憧れか、それとも…。まだ形にならない感情が、彼の中でざわめいた。
――自分は、何を見て、どこへ行こうとしているのか。

ページをめくる。そこには鉱山開発、水力発電、日本の経済発展を牽引した物語が記されていた。文字を追うごとに、浪平の中で電気という学問が持つ重みと広がりが、ゆっくりと輪郭を持ち始める。

窓の外の白い東京の空は、依然として淡い。しかし、その白の向こう側に、これまで見えなかった微かな光が揺らめいているように思えた。

「もう少し…知ってみよう。」

小さく呟いた声が、静かな部屋に吸い込まれていった。
その瞬間、赤沢浪平の物語は静かに、だが確実に動き始めていた。

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